【第1次】
11月15~17日にかけて、単組役員1名、大阪支部役員2名(支部委員長・支部執行委員)が「能登半島救援ボランティア」に参加しました。近畿労組は、これまで複数回、CODE海外災害援助市民センター(神戸市)や大阪ボランティア協会から呼びかけのあったボランティア活動に参加してきましたが、この間の活動を継続するため、今回はこれまでの経験を活かし、単組独自で被災地NGO協働センターの活動に参加しました。なお、同日程で大阪支部執行委員と青年委員会委員長が全労金の実施するボランティア活動に参加しました。10月初旬に参加して以来の能登半島救援ボランティアでしたが、復旧作業はまだまだ終わってはいないものの、道路の補修や倒壊建物の解体は以前よりも進んでいると今回初めて感じました。
1日目の作業は、個人宅の庭一面に溜まった深さ20cmの泥かきを行いました。9月21日に発生した水害の被害がまだ手付かずの状態であり、フェンスに絡まったゴミ、流れ着いた大きなゴミを取り除きながら、1日中8人で黙々と作業をしましたが、3分の1程度しか進みませんでした。泥が粘土質でかなり重たく、足でショベルを入れ、小さな塊にしてすくい上げ土嚢袋に入れるという作業でした。泥が入った土嚢袋は本当に重く、集積車が来る前の道へ運び、軽トラに乗せる作業も本当に大変でした。この作業は到底住民の方だけでは出来るものではなく、泥の中には住民の方の思い出の品もあり、重機で作業も出来ずたくさんの人手が必要と痛感しました。作業中に住民の方のご家族が来られ、「避難している母に見せよう。これを見たら母も喜ぶし、安心する」と少し作業が進んだ庭の写真を撮られていました。土嚢袋が200袋は超えた泥を運び出し、1日の作業を終えました。
2日目は天候の影響で屋内作業となりましたが、泥に浸かってしまった物を洗う作業でした。その住民の方は小鳥を飼っておられ、小鳥は衛生上の理由で避難所に連れて行く事が出来なかったため、夜は避難所で寝泊まりし日中は被災した自宅の車庫で過ごされていました。1月1日の震災当日は正月でお孫さんも帰省されており、お孫さんがすぐに近所の高齢の方々に避難の声をかけて周り、皆さん避難出来ました。高齢の方々だけではどうなっていたかというお話を伺いました。震災当初は2週間入院されており、ご飯も食べられず夜も眠れない程体調を崩されたとのことでした。「今は元気よ」と私たちにまで手作りのとても柔らかくて美味しい大きな干柿を出してくださいました。作業中に、水害の被災状況を記した冊子を見せて頂きましたが、「これを見るのは辛くないですか」と尋ねると「もう辛くはないよ。孫にこんな状況やったと見せようと思って。ほら、見て。すごかったやろ。もっと色んな人に知って欲しい」といかに当初が悲惨な状態で、現在もまだ復旧が進んでいない状況を私たちにも教えてもらいました。
水害発生当初から少しは進んでいるとはいえ、2ヶ月経ったとは思えない程、道路は乾くと埃が舞い上がり、雨が降るとドロドロになる状態です。個人宅はまだまだ泥が残っていました。この状況を1人でも多くの人に知って貰い、活動を広げていく必要を今回も強く感じました。頑張ろう能登!
【第2次】
11月29日~12月1日にかけて、単組役員3名、滋賀支部役員1名(支部委員長)に加えて、四国労組書記次長とともに「能登半島救援ボランティア」に取り組みました。今回はこれまでの経験を活かし、単組独自としては2回目となる被災地NGO協働センターの活動に参加しました。なお、同日程で滋賀支部副委員長と滋賀支部組合員、青年委員会事務局長が全労金の実施するボランティア活動に参加しました。鰤起こし(※北陸地方の冬の訪れ前に起きる現象のこと。猛烈な風が吹き荒れ雷が激しく鳴り響く日がある)の厳しい天候の中、2日間の活動でしたが、1日目は氾濫した川からすぐ近くの個人宅へ伺いました。床下に溜まった泥を掻き出す作業と、床に張ってある木を水とブラシで磨いて綺麗にする作業であったが、3部屋分の床下の泥は、3部屋多様であった。固まっていて、割れているものを拾い上げるだけで済む部屋と、固まっているけれども柔らかく、とても重い部屋と、全く固まっていないシャバシャバの泥。それをひたすら拾っては土嚢袋に入れる作業でした。午前中7名、午後20名で行った作業は土嚢袋合計300袋分の泥となり、全身ドロドロになりながらの活動は被害の深刻さを感じられるものでした。また、川の氾濫により、相当な高さまで浸水した家屋でしたが、この近辺はほとんどがそうなっていて、まだ手つかずの家屋も多く、本当に人手が足りていないと切実な話を伺いました。さらに、作業中には余震もあり、私たちは夢中で全く気付きませんでしたが、お住まいの方々は不安だったと聞きましたた。2日目は午前中のみの活動で、NGO協働センターに届いている支援物資の布団、水等を避難所である仮設住宅や体育館に届ける作業でした。まず伺った仮設住宅である宅田町第一団地には86世帯が避難されており、入居率は100%でした。ほとんどが高齢者で、自宅に帰れなくなった方、家の形はあるけど電気水道が通っていない方等、様々でした。そんな中、布団を届けた際に、「私たちよりも大屋小学校に避難されている方達の方が大変だからそっちに届けてあげて」と言われ、自分達もとてもしんどいはずなのに、それでもなお他者を思いやれる高齢者の方々は、とても強い人達だと感じました。そして向かった避難所である大屋小学校の体育館には、45世帯が体育館の中で一緒に暮らしていました。家庭毎にテントを張り、その中の段ボールベッドで寝る人、床にそのまま布団を敷いて過ごす人、それぞれでした。ダンボールベットで過ごす日々は、腰が痛くなってきていたから、布団はとても助かると大変喜ばれていました。ボランティアの私たちに対して「本当にありがとうございます」と何度もおっしゃって頂き、何度も腰深くお辞儀して頂いた姿はいつまでも忘れない。こんな思いをしないといけなくなった方々との時間を通して、天災をとても憎く思いましたが、それ以上に人の繋がりの強さは無限大である事も感じる事ができました。支援物資は嗜好品であるコーヒー等が足りていない、ジャージや下着がない等まだまだ足りていない。また、それを協働センターに届けてもらったとしても、避難所まで届ける為の人手が足りていない。休日は40人前後ボランティアが来るけれど、平日は3人前後での活動となってしまい、濃淡があり、ニーズを把握しているのに応えられない歯痒さを知りました。今回の活動で近畿労組としては、ひとつの区切りとなってしまいますが、現地はまだまだ支援が必要です。労働組合としてできることを考え、実行していきたいです。